多くの評論家は、この変化を国民のモラルの低下やポピュリズムの蔓延、あるいは利己主義の台頭といった情緒的な言葉で説明しようとする。しかし社会現象を個人の動機や道徳観念の変容によって説明しようとする試みは常に失敗する。重要なのは、人々の選好が変わったことではない。人々を取り巻く制約条件とインセンティブ構造が変化したのである。人々は非合理的になったわけではない。むしろ、環境が変わったために、合理的行動の帰結としての最適解が変化したのだ。
これはまさに、経済学の根底を流れる「人々は自らの効用を最大化する目的を持ち、与えられた制約の中で最適な手段を選ぶ」という価格理論の行動原理が機能している典型例に他ならない。
政治市場と見えざる手の不在
事の本質を理解するためには、政治を一種の市場として捉える必要がある。民間市場において、価格は情報の伝達、インセンティブの付与、所得の分配という3つの機能を同時に担う。しかし、この価格メカニズムを政治市場に適用した途端、欠陥が露呈する。
民間市場においてパンを買うとき、その費用を負担するのは消費者自身であり、便益を享受するのも消費者自身である。しかし政治市場においては、費用負担者(納税者)と便益享受者(補助金や給付金の受給者)が分離される。ここには「他人のカネで他人のために買い物をする」という、非効率な資金の使い方が存在する。政治的スローガンや政策は、この歪んだ市場で取引される財となっているのである。
レントシーキングと合理的無知
国民は、国家という強制力を持つ機構から政策的便益を引き出そうとする主体であり、自らの期待効用を最大化しようと行動する。かつて、経済が成長過程にあり、政府支出の拡大が将来の増税に直結するという予算制約が明確であった時代、政府支出の削減(無駄遣いの排除)は、将来の自身の税負担軽減として期待効用を高める合理的な要求であった。
しかし現在、状況は一変した。公共選択論の基本命題に従えば、政治市場では集中的利益と分散的費用という非対称性が支配する。特定の業界や集団に対する給付金や補助金は、その受益者にとっては限界効用をもたらすため、彼らは政治的圧力(レントシーキング活動)を展開する。一方、その財源となる税金やインフレ税は国民全体に分散されるため、一人当たりの負担額は小さく、それに反対するための政治的コスト(デモに行く、対抗ロビー活動をする等)に見合わない。
その結果、有権者は政策の長期的・マクロ的な弊害について情報を集めることを放棄する。情報収集コストが便益を上回るため、人々は合理的無知を選択するのだ。かつての無駄遣い批判は、財政問題を善悪に落とし込むことで認知コストを下げるストーリーだった。しかし現在では、「現金を給付せよ」「消費税を減税せよ」という要求の方が利害に直結しており、認知コストが低い。政治的メッセージの均衡は、理解コストが低く、即時的な利益を約束するものへと収束していく。
貨幣錯覚とインセンティブの歪曲
さらに貨幣の役割の変質である。インフレーションはいつでもどこでも貨幣的現象であるが、現代日本におけるマクロ経済政策の変化は、有権者の期待形成を通じてインセンティブ構造を書き換えてしまった。
長引く低成長は、恒常所得仮説に従えば、人々の将来にわたる生涯所得(恒常所得)の期待値を切り下げた。将来の所得増加が見込めない中、流動性制約に直面する家計にとって、将来のための貯蓄の限界効用は低下し、現在の消費(あるいは現在の生存)を支えるための即時的な所得移転の価値が相対的に上昇したのである。
ここに拍車をかけたのが、中央銀行による大規模な金融緩和と財政ファイナンス(事実上の国債引き受け)である。中央銀行が国債を無制限に買い入れることで、金利という価格シグナルが破壊された。本来であれば、政府が無駄遣いをし、借金を重ねれば、国債の金利が上昇し、それ以上の放漫財政は不可能だという警告を発する。これが市場の規律である。しかし、人為的な低金利政策は財政の予算制約に対する国民の認識を希薄化させた。「金利が上がらないのだから、政府には無限の打ち出の小槌がある」という財政錯覚を社会全体に植え付けたのである。
政府支出の財源制約というコストが見えなくなった結果、価格シグナルは情報伝達機能を喪失した。価格がゼロの財に対する需要が無限大になるのは経済学の基礎である。財源の心配がない(ように見える)以上、国民が政府に対して無限の所得移転(ばらまき)を要求するのは、欲深いからではなく、効用最大化行動にすぎない。
裁量からルールへ
分配構造の変化もこの均衡を強固にしている。高齢化による移転所得(年金や医療)依存層の増加と、労働市場の硬直性に起因する非正規雇用の増加は、中位投票者の属性を変えた。かつての中位投票者の効用関数は「自身の労働所得の最大化と将来税負担の最小化」にあったが、現在の中位投票者の効用関数は「政府からの現在所得(移転)の最大化」へとシフトしている。民主主義という政治市場において、政治家が再選確率を最大化する起業家である限り、この中位投票者の要求に応えるばらまき政策を提供することは、市場の失敗ではなく、均衡解そのものである。
したがって、現在の日本における言説の変化をモラルの退廃やポピュリズムの狂気として片付けることは怠慢である。人々は一貫して合理的であり、自らのインセンティブに従っているだけだ。問題は国民の意識ではなく、彼らを取り巻くゲームのルールが歪んでいることにある。
政府に必要なのは裁量ではなくルールである。際限のない政治的裁量が、財政制約を不透明にし、貨幣制度を変質させ、政治市場のインセンティブを歪曲したのだ。
処方箋は明確である。第一に、均衡予算の義務付けなど、逃げ道のない財政ルールの明確化。第二に、中央銀行の恣意的な国債買い入れを禁じ、貨幣供給量の安定的な伸びにコミットする金融政策の規律(Kパーセントルール的発想)の回復。そして第三に、政府支出の恩恵だけでなく、それが最終的に誰の負担(将来の増税やインフレ税)によって賄われるのかという分散コストの可視化である。
フリーランチなど存在しない。この経済学の冷徹な鉄則を制度として組み込まない限り、ばらまき均衡は永続する。なぜなら、それは人々の誤りではなく、歪んだ制度に対する人々の反応だからである。結果を変えたければ、人々の心を変えるのではなく、インセンティブの源泉であるゲームのルールを変えなければならない。
0 件のコメント:
コメントを投稿