比較的精神の安定しない20代の頃、よくフラッシュバックが起こった。
例えば不眠が続いて錯乱状態で参加した友人とのバーベキューで晒した痴態、具体的には友人のスピーカーを「人間を哲学的ゾンビに変える装置」と呼んだり、友人に30万円をいきなり渡したり、近所の葬式が哲学的ゾンビに変えられた眼の前の友人に対するNPCの弔いイベントであると言ったりした。友人は私に激怒し、私は途中で帰った。
この記憶がフラッシュバックし「自分はなんて狂った人間なんだ」という恥と恐怖でいっぱいになることがあった。逆である可能性もある。フラッシュバックしたから強い感情が起こるのではなく、強い感情が起こることがフラッシュバックされるのである。
すると、このフラッシュバックは「何かを伝えるために起きているのではないか」と冷静に分析することができる。なぜこのことに対し、強い感情を抱くのか。
友人関係は社会的本能であり、友人を大切に思う自分と、他者からどう見られるかというのを気にしている自分がいる。不眠で意志力の働かない状態での愚行が、安定してきた時に再評価されたのだ。(ちなみに哲学的ゾンビという表現は、不眠になると意識が飛ぶようなてんかんっぽい頭痛を持つため、それが朦朧とした意識状態で口に出たのだろう。)
つまり感情は単に「恥ずかしい」という苦痛を与えただけではない。「再発防止のためにできることをしろ」と言っているのである。20代は前頭前皮質の発達が未完であることが知られるが、つまり理性がないからこそ感情がサポートをする。
同じことを繰り返さないために、「体調が悪いときは友人とは遊ばない」と言うこともできるが、精神的調子であるために客観評価さえできない。だから「睡眠薬を備える」といった対策のほうがよいだろう。このようにして、フラッシュバックには実際上の効用があることがわかる。
しかし、感情というのは常によいフィードバックを与えてくるわけではない。例えばネット上で自分の政治意見の日記に誰かが皮肉を言ってきたとしよう。あなたはすぐに怒り始めるかもしれない。そしてその皮肉者に反論したりし始める。
このような状況は、人間の社会的本能が現代に対してあまり良い働きをしていない可能性がある。20代は怒りに任せて、誹謗中傷で返すかもしれない。
しかし30代にもなれば、ある程度の冷静さというものを持つ。つまり「怒り」のようなものが起こっても、その感情を「自分そのもの」ではなく、データを受け取ったときの処理の内容の一種であると冷静に評価できるようになる。すると「自分の日記に伴う社会的立場を重視するかどうか」という選択肢の問題であることに気がつく。もし独り言を書くだけなら、社会的立場など完全に無視しても構わないはずだ。世間からの評価を気にするなら、その皮肉にも一理あると思っておけば良いのである。このレベルで問われているのは、猿と人間の境である。
タルムードかなにかに、「賢い者はすべての人から学ぶ」というのがあるらしい。それは重要な知恵だ。愚者がネット上で暴言等を吐いたとき、愚者も一人の人間(人間はネ申の似姿である)と考えれば、文脈を見つけられるだろう。若くて感情コントロールがうまくいかないかもしれないし、生まれつき知能が低いかもしれないし、睡眠不足かもしれない。慈悲が必要だ。
愚者の振る舞いを見て、自分がそのような振る舞いをしなければよい。ユーモアと不謹慎発言の区別のつかない人がいたら、自分も気をつけようと学べるわけである。
過去の自分が愚者そのもののように見えたなら、そうならないように対策することができる。恥ずかしい思い出のフラッシュバックは、私にとって「君の最近の行動を見ていると、過去のこういう恥ずかしい行動に近いことをしそうだから、注意を入れとくよ」というアラートツールなのだ。
もし感情が行動を直接操ることになった場合、睡眠不足などを疑ったほうが良い。もちろん余裕があれば選択肢もある。楽しみや悲しみをあるがままに受け止めるという選択を残しておけば豊かなものになる。
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